慶応3年11月15日

西暦では1867年12月10日。この日、京都河原町の醤油商「近江屋」井口新助邸で坂本龍馬、中岡慎太郎、そして龍馬の身の回りの世話(護衛も兼ねた)をしていた元力士・山田藤吉が暗殺されました。龍馬33歳、慎太郎29歳、藤吉19歳。この日は龍馬の誕生日でもありました。

龍馬暗殺の謎は143年経った現在でも解明出来ていません。通説では「京都見廻組W実行説」ということになっていますが、「新選組W犯行説」、「薩摩藩W陰謀説、「紀州藩W説」、「土佐藩W後藤象二郎W」黒幕説、「フリーメイソンWトーマス・ブレーク・グラバーW」黒幕説などなど枚挙に暇がありません。それ以外に、「龍馬暗殺→慎太郎巻添え説」、「慎太郎暗殺→龍馬巻添え説」などもあり正にカオス状態。興味のある方は、様々な書籍が出版されていますので是非ご一読を。

決定的な同時代資料が出てこない限りこの謎は永遠に解けないでしょうね。暗殺は犯人がわからないように秘密裏に行われる行為ですから、その意味で龍馬暗殺は大成功だったことは事実です。

でも何故あの時期に龍馬は死ななければならなかったのだろう。オイラ的には様々な研究書を読んだ限り、薩摩藩が裏で絡んでいた可能性が最も高いと思う。薩摩藩は徹頭徹尾「武力倒幕」を目指していて、龍馬が裏で「大政奉還W」を推進し、結果それが実現したことにより振り上げた拳の置き場所が無くなってしまった。(討幕の密勅は大政奉還の数時間後に発令された・・・)龍馬を生かしておくと今後何をしでかすかわからい・・・。ならばいっその事・・・。

龍馬や慎太郎らが粉骨砕身して成した「薩長同盟W」(喩えれば、ジョージ・ブッシュとウサーマ・ビン=ラーディンを握手させるくらいの難題)により、薩摩藩と龍馬はこの時期最も密接だった。その直後に龍馬が定宿の寺田屋で幕吏に襲われ、大怪我を負った時の甲斐甲斐しいまでの薩摩藩の龍馬に対する擁護振りを見てもそれは明らか。なので、「大政奉還」という平和裏な討幕が土佐藩、そしてそれに龍馬が絡んでいたことに「裏切り者」という感覚が芽生えたとしてもおかしくない。

でも、これも良く考えるとちょっと無理があるかも・・・。なぜなら「大政奉還」という手段は薩摩藩も事前に土佐藩から聞き、一応納得していたからだ。龍馬はこのように説得したらしい。(真偽の程はわかりませんが)

「大政奉還という事になれば、長州藩も堂々と軍を率いて上京することが出来る。もし将軍(徳川慶喜W)が大政を奉還しなかった時は、そのまま薩長土三藩をもって幕府を討つ事が出来るではないか」と。これが事実なら、龍馬は武力討幕も視野に入れていたことになります。ちなみに慎太郎は完璧な武力討幕派。

暗殺する理由が無いのである・・・。

と、こんな感じであちらを立てればこちらが立たずという矛盾点が全ての説に出て来てしまう。それでも、薩摩藩はどう見ても怪しいのだけど・・・。結局、「王政復古Wの大号令」が発令されて「鳥羽・伏見の戦いW」~「戊辰戦争W」へと武力討幕的展開になっちゃったしね。

毎年11月15日になると「龍馬暗殺」のことに思いを巡らしてしまう。どうです?歴史って結構面白いと思いませんか!

古写真

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