追憶~時の流れは時として残酷なものでございます

江戸崎の家跡地


上記の写真はこのブログでもたびたび書いた、我が父の故郷である茨城県稲敷市江戸崎某町にある生家の本日現在の姿です。ご覧いただいておわかりのとおり、今月7日より取り壊しをし、後は地ならしを残すのみとなった更地です。

かつてここには母屋、農機具を収める倉庫、そして祖父の唯一の趣味であった植木がたくさん植わっており、四季折々の趣を肌に感じることが出来ました。

僕にとってこの家は小中学校を通じ、夏休みになると欠かすことなく必ず訪い、祖父母の愛情を一心に受けつつ日々を過ごした愛着のある地であり、またある時期、短くはありましたが転宅をし居住していた家であり、大切な思い出が詰まった家でありました。

それが跡形も無くなり、漠たる風景になってしまったことは慚愧に堪えないのでありますが、ではこの家を僕が守ることが出来たのかというと現実的には不可能でありました。

僕が成人式の式典から帰宅した日、祖母が身罷りました。一周忌を終えた一ヶ月後、祖母に呼ばれるように祖父が身罷りました。結果、この家は空き家になりました。

我が父は長男でありましたのでこの家を相続することに親戚一同は何の異論を挟みませんでしたが、すでに東京に居を得て長年に渡って仕事をしている身なれば転宅することは能わず、その時点で家を取り壊すことを宣言したのであります。

近しい親戚は同意したものの、遠縁(祖母の兄弟など)は「生家が無くなることは許せぬ」と息巻きました。ろくに墓参りにも来ないこの遠縁に罵倒をもって応対した我が父。しかし、彼等は聞く耳持たずといった態度を崩さず、挙げ句の果ては僕に継がせるといった話しにまで発展したのでした。

そんな我が儘な遠縁の姿を見ているうちに言い知れぬ悲しみと怒りを感じた僕はあえてその案に了を下し、条件として「僕のものになるのであれば、その後の処分は自由にさせていただきます」と宣言したのでした。

結果的に家は残すことにしました。それから20数年。無人のこの家の維持は全て我が父が購いました。下世話な話になりますが、その間にかかった費用は下手をすれば家一軒建つほどの額になったといっても過言ではありません。

時代は移ろい、当時と現在では社会情勢が全く異質なものになってしまいました。この地域はますます過疎が進み、主たる産業である農業に至ってはほぼ壊滅状態であります。

一見すると豊かな田と畑が広がり、都会からやって来るとそののどかな風景に心を洗われることしばしばでありますが、その現実は大変厳しく、専業農家はたった3軒しかなく、それ以外は年の半分を農業、半分は別の仕事で糊口をしのぐほか術がないのであります。当然、こう言った状況では農業を継ごうという若い世代の人間などいるはずもありません。

街中に歩を進めてみると、そこかしこに空き地が増えておりました。万止むを得ず家を取り壊すことにした一族は僕たちだけではないのであります。全国規模で考えれば星の数ほどございましょう。

永遠に家を守ることは不可能でありますから、いつかは消滅するわけで、それがたまさか2011年に訪れただけと考えれば幾分心が軽くなります。

今日、一粒の涙とともに家が建っていた場所に立ち、一握の土を持ち帰りました。

思い出の家は永遠に消滅しましたが、何の変哲もない土塊にはきっと“思い”の残滓が残っていることでしょう。

  1. 先日、関西出身の昔の上司がやはり両親の家を取り壊して処分することになったと言っていました。庭の柚子の木が過去にないほどたくさんの実をつけてくれたと。最後にがんばってくれたんだなぁと寂しそうでした。
    まったく諸行無常ですね・・・。
    故郷は遠きにありて想うもの・・ではなく、いつも心の中にありますからね!

    • Luzia
    • 2011年 1月 18日

    @Angelitaさん
    目を閉じれば祖父母が健在だった頃の家がありありと思い出せます。

    田舎の家ですからやたらと庭が広く、祖父が丁寧に剪定した木々が美しく、時期になるとたわわに実をつけた柿の木、キウイ棚、花梨などもありました。まぁ、しょうがないですね・・・。

    さて、日本のTTP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加の是非が問われていますが、オイラはこれにより日本の農業は壊滅すると考えます。肯定的な意見を持つ方もいらっしゃいますが、まず無理でしょう。

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