革命の長い夜

慶応2年1月21日、世に名高い“薩長同盟”が締結されました。犬猿の仲であった薩摩藩、長州藩が政治的、軍事的に手を結ぶことにより、日本史上長きに渡った幕藩体制に終止符が打たれることになり、近代日本の出発点とも言える大変重要な出来事でありました。さて、1月21日という日付は旧暦であり、新暦では1866年3月7日、つまり145年前の今日であります。

薩長同盟実現のために坂本龍馬W中岡慎太郎Wらが奔走したことは周知のとおり。薩長同盟というのは言うなれば冷戦時代の米ソを握手させるようなものであり、大変な苦労を伴ったであろうことは想像に難くありません。

薩長同盟が成されたという具体的な資料(誓約書等)は存在しません。極秘中の極秘事項でありますから、漏洩を防止するために口頭で誓約が成されたという説が有力ですが、中には薩長同盟はなかったという説を唱える方もいらっしゃいます。

しかし、決定的な資料が存在します。会談の内容を木戸貫治(桂小五郎、後の木戸孝允W)が会談の内容を文書化し、内容に間違いがないか龍馬に裏書を求めた書簡です。余りにも有名ですね。これによりどのような誓約が交わされたのかが明らかになりました。

一、戦と相成候時は直様二千余の兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事。
(一、長州藩と幕府の間で戦争がおこった時は、薩摩藩はすぐさま2000人の兵を京都に派遣し、現在在京の兵と合流し、大坂にも1000人ほど送り、京都・大坂の両地を固めること)

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒相見え候とも、其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事。
(一、戦いが長州藩の勝利となりそうな時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、尽力すること)

一、万一戦敗色に相成り候とも、一年や半年に決て壊滅致し候と申す事はこれなき事に付、其間には必尽力の次第、屹度これあり候との事。
(一、万一敗れそうな時でも、一年や半年で壊滅することはないので、その間に薩摩藩は必ず尽力すること)

一、是なりにて幕府東帰せし時は、屹度朝廷へ申上、直様寃罪は朝廷より御免に相成り候都合に屹度尽力の事
(一、幕府が東へ帰った時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、すぐさま長州藩の免罪が解けるように尽力すること)

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義に抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及び候外これなきとの事。
(一、幕府が兵を上京させ、一橋、会津、桑名が現在のように朝廷を擁し、正義を拒み、周旋尽力の道をさえぎる時は決戦におよぶ他はないこと)

一、寃罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽し、屹度尽力致すげきとの事。
(一、冤罪が解けた上は、薩長両藩は誠意をもって協力し、皇国のために砕身尽力することはいうまでもなく、いずれの場合にあっても、今日より双方は皇国のため、天皇の威光が輝き、回復することを目標に誠心を尽くし、必ず尽力すること)

“龍馬直筆による朱筆の裏書”

朱の裏書

表に御記入しなされ候六条は小、西両氏および老兄龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これなく候。将来といへども決して変わり候事これなきは、神明の知る所に御座候。

丙寅二月五日  坂本龍

(表に記入された六条は、小松帯刀、西郷吉之助の両氏および老兄(木戸貫治)、龍馬なども出席して話し合ったもので、少しも相違ない。将来になっても決して変わることがないことは、天地神明の知るところである。)

龍馬は薩長同盟に関わっていなかったという説もありますが、この裏書が存在する限りそれはないのではないかと・・・。

これから145年後の今日現在。民主党政権の退廃ぶりを見るにつけ聞くにつけ嘆息しか出ないのは僕だけだろうか?

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。

*