楽譜に作曲者の手稿譜も添付して欲しひと思ふ今日この頃

とは言ったものの、実際出版するとなると楽譜ページ数が増えてしまうことによって価格が高くなったり、作曲家によっては悪筆過ぎて手稿譜が読み辛いなどの問題もあるので難しいのも事実でござんす。そういった意味ではイタリアのBÉRBEN Edizioni musicaliから刊行されているセゴビア・アーカイヴシリーズは巻末に作曲者の手稿譜が掲載されている素晴らしい企画でありんす。

特に手稿譜を付けて欲しいのは、ギターを弾かない作曲家の作品であります。

ギタリストが作曲した作品はたとえ難曲でも演奏不能な箇所というのはまず無いのであります。ギターの特性を最大限まで引き出しているのね。しかし、そこにはギターだからという妥協点が作品に反映されてしまう危険性があるやもしれませぬ。

一方、ギターを弾かない作曲家による作品は演奏不能な箇所が多々あるのも事実であります。となれば、そこにはギターだからといった妥協点が作品に反映されることが少なく、ギタリストが想像も出来ないような思わぬ効果を持った作品が生まれやすいでせう。

演奏不能な楽譜を出版しても当然売れませぬ。そこで、曲を献呈されたギタリストや出版社お抱えのギタリストが演奏出来るように校訂をして出版されることが常であります。

それは大変有り難いことなのだけど、中には決して演奏不能なパッセージではないのに何でこんなことになっちまったの???っていう不思議な楽譜もあるのね。

それが論争にまで発展してしまったのが、あのAstor Piazzolla(アストル・ピアソラW)が書いた唯一のギターソロ作品である“CINCO PIEZAS para guitarra(ギターのための5つの小品)”っていう作品でっす。

クラシック・ギター界では結構有名な話なんですが、未だに解決しておりませぬ。

それはさて置き、確かにこの作品の出版譜をじっくり眺めてみると不可解な箇所があります。一例を挙げれば、第3曲“Acentuado(アセントゥアード)”カンタービレ部分。冒頭から14小節の間は全小節にオスティナートW・バスが配置されています。

確かに演奏はかなり難しいのですが、決して演奏不能ではございませぬ。ところが出版譜は部分的にオスティナート・バスを簡略化、もしくは省略してしまっているの。ピアソラの手稿譜と出版譜を比較すると一目瞭然でっす。

アストル・ピアソラ作曲“ギターのための5つの小品”第3曲“アセントゥアード”のカンタービレ冒頭手稿譜。 アストル・ピアソラ作曲“ギターのための5つの小品”第3曲“アセントゥアード”のカンタービレ冒頭出版譜。

楽譜を見る限りでは、少しでも弾きやすくするために簡略化(もしくは省略)してしまったと思われてもしょうがありませぬ。

これに対して楽譜を校訂したイタリアの優れたギタリスト、作曲家であるAngelo Gilardino(アンジェロ・ジラルディーノ)さんは「最終的に渡されたピアソラの手稿譜がそのようになっているのだ」と反論されました。オイラ的にはアンジェロさんの主張が正しいように思います。てゆーか、そうであって欲しい・・・。

というのも、アンジェロさんがこれまで校訂されてきた楽譜、例えばMario Castelnuovo-Tedesco(マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコW)の大作“24 CAPRICHOS DE GOYA para guitarra op.195(ギターのためのゴヤによる24のカプリチョス)”の楽譜を見ると、演奏困難もしくは演奏不能の楽譜を敢えて載せ、その部分にossia譜を事細かに併記しているからでっす。

第1曲目“FRANCISCO GOYA Y LUCIENTES, PINTOR(フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテス、画家)”の冒頭部分をご覧なされたし。

“ゴヤによる24のカプリチョス”第1曲目“フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテス、画家)”の冒頭部分

この作品は全4巻なのですが、ほぼ全巻に渡ってossia譜が併記されちょります。ここまで細かく楽譜を校訂する方が、先述のピアソラの作品をあんな風に改変してしまうでせうか?まぁ、真実は判りませぬが・・・。

なので、こんなことがないように手稿譜を添付して欲しいわけですよ。無理ならossia譜でもええがな。出版社の方々、ご一考下さいやし。

  1. コメントはまだありません。

  1. トラックバックはまだありません。

*